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日本人移民についての考察
高知県議会議員
南米友好親善高知県議会議員連盟 事務局長
下村 勝幸

皆さんは,日本人移民という言葉をお聞きになって,どんなイメージを持たれるでしょうか。移民として未開の地に渡り,移住当時の苦しく
悲惨な生活を想像される方から,日本でもほとんど見ることが無いような巨大な農業機械を操り,大成功している農場経営者をイメージされる方など,イメージは様々だと思います。
私は,実際に南米等の移民先で移住した皆様にお会いするまでは,全くといってよいほど日本人移民に対する知識もなく,あまり興味を持ったこともありませんでした。
しかし,今から5年ほど前,たまたま私の家を訪問して下さった方がパラグアイに移民された方であり,昔は私の近所で生活をしていたこと,
更には,私の地元からも多くの方たちが当時の日本の国策を信じて海外へ移住されたことを知り,私の関心は高まりました。
移民として移住された方たちの多くは,移住直後の状況を細かく語ることはありません。私の勝手な推測ですが,今、移民先で成功されている方々は,移民全体からみれば,ほんの一握りの皆さんであり,現地では筆舌に尽くしがたい苦境の連続の中,移住した多くの方達が移住先を転々とし,更には,逃げるように帰国した方もおられるという状況が,移民した皆様の口を閉ざさせているのかもしれません。
そうした中,2016年,高知県議会として「パラグアイ移民80周年記念式典」に私も出席させて頂きました。その式典には,日本からは眞子内親王殿下も出席されました。また,パラグアイ側はパラグアイ大統領をはじめ,上下両院議会議長や最高裁長官ほか多くの閣僚の皆様も出席され盛大に式典が催されました。その式典の中で,パラグアイ大統領のお言葉が今も私の心にしっかりと残っております。
「日本人が作ってこられたコミュニティは,パラグアイ人のお手本であり,日本人に対する親愛,尊敬の念は,世代を超えたパラグアイ人の気持ちでもあります。パラグアイは,今でもそしてこれからも,世界で最も日本に親しい国であり続けます」とおっしゃられました。
パラグアイ大統領に,ここまで言わしめた先人の皆様のたゆまぬご努力を思うと本当に胸が熱くなり,涙がこみ上げてきました。
また,折角の機会でしたので,パラグアイのみならず,アルゼンチン,ブラジルの移民先にも訪問させて頂きました。その訪問先でも驚いたことがあります。それは,今の日本では感じることが少なくなった「目上の方を尊敬し,心からの敬愛の念を持って接する」という日本古来の家庭道徳がどの国でも非常に重んじられ,今も脈々と日系の皆様にその精神が受け継がれていっているという事実であります。
日本の高知県に住んでいる私が,ハッとさせられた瞬間でもありました。改めて,移住地から日本文化や家庭道徳の素晴らしさに気づかされると同時に,移民された皆様への感謝の気持ちを忘れることなく,恥ずかしくない日本人としてのアイデンティティを次代に引き継ぐ努力をしたいと思った瞬間でもありました。
写真説明:JICA日系研修員による南米友好親善高知県議会議員連盟表敬訪問(2019/8/6)
高知の皆さんによろしくお伝えください
高知大学人文社会科学部自律学習支援センター
OASIS学習アドバイザー
杉尾 智子

「高知の皆さんによろしくお伝えください。」
この言葉は,2016年度JICA青年海外協力隊事業等理解促進調査団員としてパラグアイを訪問した際,高知県系移住者から私が皆さんに預かってきたメッセージであり,私の人生における課題としてずっと心にあるものです。
2016年10月13日,高知龍馬空港から丸二日もかけてやってきたはずのパラグアイ・アマンバイ県で一番に耳に飛び込んできたのは,まさかの流暢な土佐弁(幡多弁)でした。出迎えてくださったのは,パラグアイ日系人の中でもとりわけ戦後高知県から移住された方々。彼らの案内のもと,アマンバイ日本人会館や日本語学校を訪問し,移住に至った背景や現在の暮らしぶりに触れ最も伝わってきたもの,それは,母国・母県への望郷の思いと誇りでした。
日本語学校の子どもたちによるよさこい鳴子踊り,歓迎会で並ぶ皿鉢料理,呑み交わされる盃に,彼らがどんな思いで母国・母県の文化や言葉を受け継いできたかを想像すると,胸が熱くなりました。
誰よりも豪快に笑い颯爽と歩く,80歳もとうにこえたおじいちゃん山脇生年さん。幡多郡黒潮町(旧大方)の出身で,強いリーダーシップの
持ち主です。
「私は日本からわざわざ地球の反対側まで来た。それなのに,パラグアイの人と同じことをしていたら意味がない。移住当初は大変なこと
ばかりだったが,それでも私たちを受け入れてくれたパラグアイに恩返しするため,私たちは日本人としてパラグアイ社会の発展に貢献して
いくんだ。」
「ここパラグアイでは特に安全面において,何か起こったとしても全ては自己責任。自分が頭を使って生きていく必要がある。例えば泥棒はいけないこと。でもその善し悪しを議論し他人を批判するのに時間をかけるのではなく,そんな現実を,自分はいかに生きるかが大切なんだ。日本ほど平和で安全な国はないんだから。」
と教えてくださいました。
私はこの言葉に,多様化する日本,そして高知県の将来へのヒントが隠されていると感じました。
また私は,山脇さんを含め,私が出会った移住者の皆さんから,誰もが覚悟をもって逞しく,そして明るく生きているという印象を持ちました。「移住当初は辛かった」と聞き及んでいた辛い過去を持つ彼らが,なぜ今このように生きられるのか。
帰国後読んだ移住の歴史についての書籍にも,慣れない土地での食糧難や感染麻生による苦難など,悲惨な記述が多く見受けられました。
現在では,移住者が持ち込んだ大豆栽培が,パラグアイを世界第4位の大豆輸出国に押し上げ,大規模農業の経営者として成功している移住者も少なくありません。しかし成功の背景には,「彼らの並々ならぬ努力があったのだろう。どうしようもないほどの苦労の末に,彼らのこの
底抜けの明るさと深い優しさがあるのだろう」と理解するようになりました。
「自分が選んだ道を(時には不本意な道であっても),誇りと信念をもって生き抜く。ちょっとやそっとのことは笑い飛ばし,いかに面白く
事を成すか。」私もそんな大人でありたいと,今でも思い悩んだ時は,彼らの笑顔を思い出すようにしています。
「高知の皆さまによろしくお伝えください。」
地球の反対側にあるもう一つの高知,そしてそこに暮らす人々の様子が,このレターを通して皆さまに伝わることを心から願っています。
写真説明:パラグアイ・アマンバイ 日本人会館にて(2016/10)